The Portrait of Heroines

美は「見いだされる」。

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「彼の指先は細く繊細であったのに、彼の爪はつぶれてどす黒かったが、そのため彼の美しさはかえって一段と増していた。」(ジャン・ジュネ「泥棒日記」新潮社)

つぶれてどす黒い爪が、「美しい」わけがあるだろうか。
ここに語られる「彼」は、ジュネがこのとき愛し抜いていた相手であるからこそ、何でもかんでも「美しい」と見えたのではなかろうか、と考えることもできる。惚れ込んだ相手のことは何でもよく見える。

しかし、この一節を読んだとき、私はあることを思いだした。
10年以上前、自動車整備士の男性と、ひょんなことで知り合いになった。彼の手はごつごつしてひびが入り、オイルやなにかで真っ黒になっていた。私が手をじっと見ているのに気づくと、彼はさっと隠そうとした。「きたないでしょう」と苦笑いした。
でも、その手は「汚い手」には見えなかった。仕事をしている手だった。ある種の仕事をすると、いくら洗っても色が落ちなくなることはある。「仕事をしている手で、いい手だと思う」と私が言うと、彼は私を食事に誘ってくれた。その一言がうれしかった、とあとで言われた。彼とはそれっきりだったが、私には、あの手は「美しい手」だった。

たとえば、芸術的な才能のある写真家が彼の手を写真に納めたとしたら、それはきっと、誰の目にも美しい作品として映っただろう。一般に「汚れたもの」「みにくいもの」と思われているものが、「美しい」作品の中に映っていることは珍しくない。朽ちかけた家や古びた看板などが映った作品の中に、私たちは容易に、美しいノスタルジーや、尖った色彩などを見てとる。

「徒刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている。」
「徒刑囚の服の布地は色彩以外の点でも、そのざらざらした感触によって、花弁にうっすらと毛の生えたある種の花々を連想させる。」(同上)

いわゆる「囚人服」のようなものさえ、ジュネの目にはそのように映る。薔薇は美しい。花は美しい。私たちはこうした表現を読んで、赤と白のしましまの、滑稽でさえあるもののなかに、悲しみを帯びた美を見てとることができる。

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こうした美しさは、どこにあるのだろう。
私たちは、すべすべしたきめ細やかな肌とか、美しく咲いた盛りのバラとか、そうしたもの「自体」に美があると考えている。でも、実際「美しさ」は、私たちの頭の中の、イメージや言葉の中だけにあるものではないか。
あらためて「イメージ」されない美というのは、おそらく存在しないはずだ。
たとえば、すべすべしてきめ細やかで真っ白な手を、前述の自動車整備士の手と並べたとき、前者の手を「よわよわしい、なにも生み出さない、傲慢な手」と感じる人もいるだろうと思う。山に咲く可憐な野生のエーデルワイスと、ハウス栽培のバラの大輪を並べたとき、後者を「驕慢だ」と感じる見方もあるにちがいない。前回の、ドストエフスキーが描いた初老の女性の姿にも、「もの」に所属しているかのような「美」は、一切描かれていなかった。
「もの」そのものの中に、美があるわけではないのだ。
少なくとも、私たちはそういうふうには感じられないのだ。

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「叙情的に生きなさい。世の中には、ロマンティシズムが少なすぎる」。
http://thepage.jp/detail/20131026-00000007-wordleaf

これは、俳優の及川光博さんが、美輪明宏さんからかけられたという言葉だ。
二人がトークショーで初めて会うことになったとき、事前に及川さんが美輪さんに挨拶しようとしたところ、断られた。「互いに、舞台の上手と下手から登場して、舞台の中央で会いましょう。そのほうがロマンティックでしょう」。

上に考えてきた「美」と、この「ロマンティシズム」には、通じることがあるように思う。物事や出来事の中に美しさを見いだすには、胸の中に何らかの美意識がなければならない。ロマンティックや美しさをこの世に探し出して証明しようとする意志がなければならない。美は、私たちによって探し出されるまでは、どこにもないのだ。

これは「自分が美しくなるには、誰かに自分の美しさを見つけてもらうしかない」という意味ではない。むしろ、自分の中に美やロマンという真実がなければ、それはこの世に現れることさえない、ということだ。
たとえば、あるアクセサリーがあったとして、まずそれを自分で「美しい」と思わなければ、手にとることも身につけることにもならない。
よって、それを誰が見ることもない。
美を見せたり、見られたりすること以前に、まず私たちの中に、美を見つける力が存在していて、それを起動する必要がある、ということなのではないか。
ある美しい人がいたとする。
その人の心の中に、まず、美やロマンティシズムを見いだそうとする意志があって、その意志が、その美しさに「結果的に」結びついている、というわけだ。

もしそうなら、自分が感じた美を、必ずしも相手が解ってくれるとは限らない。
であるならば、美は、孤独であるはずだ。

そんなことを考えていたとき、たまたまある方と、まさにこのことについて話す機会を得た。その対話の件は、次回に。

PHOTOGRAPHY BY AHLUM KIM